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離婚にまつわるコラム

国際結婚が介護地獄の入り口に

私の夫は台湾人男性でした。

 

1998年、私はアメリカ合衆国のロサンゼルスの大学からニューヨークに転校したのがきっかけで、私達はニューヨークの大学でお互い留学中に知り合いました。

 

台湾人の彼とは同学年で同じ大学でしたが、彼の専攻はビジネス、私はコンピューター。アメリカの大学はとても広く、校舎だけでも7つもありましたので、普段は滅多に彼に校内で会うこともありませんでした。しかしアメリカの大学では、ネイティブ以外の外国人のための語学クラスが放課後にありまして、そのクラスが一緒になり、お話をする機会があり、なんとなく顔見知りになりました。

 

彼の顔を知って、名前を知って、ランチタイムのカフェテリアでよく見かけるようになり、一緒に食事をしながらお話していると、お互いに「将来はコンピューター関係のお仕事に就きたい。」という話の流れから、様々な共通点がでてきて、彼とお話しているととても楽しくて、ランチはいつも彼と一緒に食べるようになりました。

 

彼はとても成績優秀で、アメリカ人を差し置いて学年内でもいつも5番以内には入っている学力ぶりなのに、常に腰が低くみんなの人気者でいつも周りには人がいっぱい。友達には平等でいつも明るく、そして台湾人男性の義務である徴兵で鍛えられた精神力の強さと心の優しさに、私はいつしか魅かれていき、恋に落ちました。

 

彼とお付き合いするようになって、ニューヨークでは色々なところに遊びに行きました。毎日が本当に楽しくて、卒業が近づいてくると「この先もずっと彼と一緒に居たい。」と思うようになり、彼も私と同じように思ってくれていました。

 

私達は大学を卒業したらお互いにどうしようかと、話し合うことも多くなりました。大学を卒業したら、彼は台湾、私は日本へ。お付き合いをこのまま続けられるのか……。

 

遠距離恋愛と言っても距離が離れすぎて、現実的に受け止めきれない……。話は進むことなく、彼は卒業予定の5月より早めに単位を取得して「一日でも早く台湾に帰って就職したい。」と、2000年1月に台湾に帰国しました。

 

 

彼が台湾に帰国してから、私は予定通り、2000年5月にニューヨークの大学を卒業し、日本へ帰国。彼とはメールで毎日連絡を取り合い、時々は電話もしていましたが、やっぱり私達の気持ちは「直接会いたい」でした。

 

私は日本で就職も決まりましたが、休暇を取り、安いチケットを探して台湾へよく遊びに行くようになりました。

 

初めての台湾。彼に色々なところを案内してもらいましが、やっぱり観光は楽しいものです。にぎやかな夜市や派手な仏閣。見るもの全てが新鮮でドキドキして、実際に住む苦労など考えずに、ただ「楽しい」という気持ちだけしか沸いてきませんでした。

 

そして何度目かの台湾で、「長期で台湾に滞在したい」と彼に話すと、「学生ビザを取得して、語学学校に行ってみては?」とのアドバイスがあり、学生ビザで滞在できる最長の半年間と決めて、2001年に台湾に北京語の語学留学にいきました。

 

半年間だけと期限を決めた語学留学は、本当に楽しかったです。

 

当時はまだ彼とはお付き合いしている段階の「恋人」の状態でしたので、彼の実家に転がり込むわけにもいきません。台湾は物価が安く、長期間で取るとさらに安くなる中流ホテルに半年間住み、とても快適な毎日。彼も呼べばいつでも来てくれるし、「もう寂しい思いはしなくてすむ、私ってなんて幸せなのだろう~」なんて気持ちに浸っていました。

 

そして、楽しかった半年間の語学留学はあっという間に過ぎました。

 

しかし、いくら台湾の物価が安いと言っても、半年間も仕事をしていなかったら、貯金も底をつきます。「少し日本で働いて貯金を溜めてからまた語学留学に必ず来るね」と、彼と約束をして、日本で働きながら彼とはメールと電話で連絡を取り合っていました。もちろん台湾での語学留学後に日本に帰国してからも、台湾へはよく彼に会いに行っていました。

 

そして、2001年9月11日。アメリカ同時多発テロ事件が起きました。ニューヨークワールドトレードセンターが炎上したのです。あちこちで飛行機が飛ばなくなり、当然、私も思うように飛行機に乗れなくなりましたので、しばらく台湾に行けなくなりました。この事件がきっかけで私達の絆は一層強くなり、もう滞在ビザの心配をしなくても良い「結婚」という二文字を意識するようになりました。

 

2002年、彼からのプロポーズを受けて、私は台湾で台湾人の彼と結婚しました。

 

国際結婚に関しては、両親は大反対です。ましてや台湾という日本と国交のない国の男性と結婚するなんて…と色々言われましたが、私はまだ若かったので、よく考えずに「大好きな男性と、どんな時も一緒に居たい」ただそれだけでした。

 

私達は台湾の大使館で入籍を済ませ、私に渡されたものは「居留証」だけでした。台湾では結婚しても、女性の姓は変わらないのです。結婚したら、女性にとって一番実感できるのは姓が変わることですから、私もてっきり彼の姓を名乗れると思っていたのに、女性として少し残念。でも国の法律なのだから仕方ないと割り切って、彼は「彼」から「夫」になり、私は彼の「妻」になれた喜びに浸っていました。

 

結婚後は彼の家族としばらく同居の約束でした。

 

彼は私を迎え入れてくれるために、広めの部屋に引っ越しをしていました。新居は3LDK。住居人は彼の兄である長男とお嫁さん。そして次男の私の夫と私。そして離婚した義父。この5人での生活がスタートしました。

 

義父以外は英語が堪能でしたので、会話には困らなかったのですが、義父は全く英語が出来ないことと、台湾で生活していくうえで北京語は必要になってきますので、日中の時間帯は、私はまた前のように語学学校へ通い、夕方には帰宅するという順風満帆な生活でした。

 

夫は仕事でとても忙しく、帰宅は夜中でしたが、それでも毎日一緒にいられることが私にとって何よりの幸せでした。

 

ある日、夫が「お給料の使い方を相談したい。」と切り出してきました。

 

当時、私は夫から約5000円のお小遣いをもらっているだけで、生活費のお財布は夫が握っていましたので、夫婦になってこんなことも話し合うのだろうとお給料の使い道や振り分けなどを話し合っていたのですが、私はどうしても日本で加入している国民年金だけは払い続けたいと思っていたので、年金の支払いにも回してもらえるよう、お願いしました。

 

夫は日本の年金制度を知らなかったようで、とっても興味津津。年金制度のシステムを聞くと「日本ってなんて素晴らしい国なんだ!」と、ビックリしていました。

 

無事に年金は、夫のお給料から支払ってもらえることになったのですが、のちにこれが大きな問題となって私に降りかかってきました。

 

私は毎日、語学学校と家事に追われていましたが、とても幸せで充実した毎日を過ごしていました。そんなある日、義父が倒れました。脳梗塞でした。すぐに病院に運ばれて命に別状はなかったのですが、右半身に強い麻痺が残ってしまって体が自由に動かなくなり、退院後も介護が必要な体になってしまいました。

 

病院から帰ってきた義父はすっかり別人になってしまって、誰かの手を借りないと何もできない人になっていました。

 

トイレ、入浴、食事、リハビリ、歯磨き……病気になって可哀相というより、全て誰かがやらなくてはならないのです。

 

私は当然、日本のように日中だけ介護の人に来てもらうか、入浴サービスなど利用するものだと思っていました。しかし、台湾にはそのようなサービスは無いのです。老人ホームなんて便利な施設もありません。家族の誰かが面倒を見て、リハビリをしなくてはならないのです。

 

義兄夫婦も一緒に暮らしていましたが、まだ子供はいなく、二人とも忙しく働いていましたので帰宅は夜8時。夫はもっと忙しく真夜中の帰宅。

 

一人で部屋にいるのは私だけです。必然的に私が義父の身の周りの面倒をみなくてはならなくなりました。

 

初めての介護はまさに「地獄」そのものでした。朝は4時に起床。トイレが一つしかないので、他の家族が起きる前に義父の排便を済ませ、体を拭いてあげて、麻痺が残った部分のマッサージ。家族の朝食を作り、病院から指導された脳のエクササイズ。

 

「今日は何月何日?」

「ここの家の住所と電話番号は?」

 

など、ボケないように毎日質問や前日に見たテレビドラマの話など、思い出させるような内容の会話をします。

 

家族が起きてきて、見送りをしたら外は明るくなっていますから、天気の良い日は杖を持たせて歩行練習です。義父は重いので、転ぶと大怪我を負ううえに、なかなか私一人では起こすことが出来ず、転ばせないようにするのが怖かったです。

 

午前中は歩行などのリハビリとオムツの交換、そして家事に追われていましたが、昼食を食べさせた後はお昼寝の時間になり、このときだけは少しだけ私に自由な時間がありましたので天国でした。

 

私は義父の昼寝の時間を利用して、午後からは語学学校へ通っていました。

 

この時だけは、お友達とお話したり、お茶を飲んだり、本当に楽しい時間でした。やっと人間らしい生活をしていると実感できた時間帯でもありました。楽しい時間はアッという間に過ぎてしまうもので、夕方前に帰宅して義父を起こし、すぐオムツ交換。そして夕食の準備。

 

介護には休みはありません。土日も祝日も関係ありませんから、私はくたくたでした。でもそんな中でも頑張れたのは、夫がとても優しかったということです。夫の帰宅は遅かったのですが、常に私に気配りをしてくれ、「毎日ありがとう、ごめんね」と、毎日必ず言ってくれていたことだけが、本当に嬉しくて、唯一の救いでした。

 

義父の体調は日に日に悪くなっていきました。

 

「子育ての世話はどんどん良くなる。老人の世話はどんどん悪くなるよ」と友人に言われました。義父は麻痺が広がってきたのか、その通りで、日々体が動かなくなっていきました。

 

今まで出来ていた歩行が出来なくなる、麻痺の右手どころか左手まで動かなくなる、自分の力だけで座っていることができなくなる、歯が抜ける、薬の量が増える……介護をしている私でさえもビックリするぐらいの薬の量になりました。

 

義父の体調が急に悪くなって、親戚が日中様子を見に来るようになりました。台湾では親族の結束はかなり強いので、それはもう毎日毎日の訪問で私の休まる暇がないくらいでした。

 

「智子が介護を初めてから、お父さんはこんなに悪くなっちゃったんだよ、可哀相に」

「智子が介護に耐え切れず、お父さんの歯を抜いてしまったんだよ」

「智子が、お父さんを少しずつ殺そうとしているんだよ」

 

私は、いつしか親戚中から陰でこんな風に言われるようになりました。義父の体調が悪くなってくると、私も北京語はだいぶマスターしてきていましたから、親戚が何を言っているのかはわかります。だんだん陰口もエスカレートしてきて、耐えられなくなり、反撃もしました。でもその度に、

 

「そんな事言ってないよ。智子はまだ北京語を勉強中だから聞き間違いしたんじゃないの?」

 

と、必ずごまかされてしまうのです。義父は年齢のせいもあり、歯が弱くなっていきました。私も気を付けて、夫や義兄夫婦に

 

「義父の歯がグラグラしているのだけど、どうしよう」

 

と、何度も相談したのですが、夫も義兄夫婦も忙しく、病院に付き添ってもらえないのです。私の北京語レベルでは日常会話はともかく、病院などの専門用語が飛び交う場所では人の命がかかっていますから一字一句、聞き逃しは許されませんので、とても一人で義父を病院へ連れていくことなんて出来ないのです。

 

今までの義父の食事は、麻痺のない左手でスプーンを使って食べていたのですが、左手をも動かなくなり、体調が悪くなってからは私が食べさせるようになったのですが、食べ物に対する執着心が強くなり、食べ物を見ると「早く食べたい、食べたい、食べたい!」と待ち切れずに、スプーンに顔ごと突っ込んできて、その時に歯が抜けてしまうのです。

 

「歯もグラグラしているし、危ないでしょう!」と注意しても、食べ物を見ると人が変わったようになるのです。

 

この時から、私は家族の食事とは別に介護用の柔らかいお粥や、ジューサーなどで工夫して歯が抜けないような工夫をするようにしました。家族の食事とは別に作るので、本当に二度手間で時間もたくさんかかりました。

 

それよりも、また親戚に「私が義父の歯を抜いている、義父を殺そうとしている」と言われるのが本当に辛かった……。絶対に違うのにわかってもらえない、うまく北京語で反撃できない。もう二度とそんな事は言わせないと、一生懸命でした。

 

義父は体調とともに、なぜか怒りっぽくなってきました。

 

自分の思うようにいかないと杖を振り回す毎日。大声で怒鳴る。座ったまま暴れる。今思えば、脳障害も出ていたのでしょう。まだ若かった私には、なぜ義父がこんな風に変わってしまったのか、わかりませんでした。

 

特に辛かったのは、義父の母親の義祖母でした。

 

義祖母は義父兄弟の長男と暮らしているのですが、家はすぐ近所なので、義父の体調が悪くなってきてから、ほとんど毎日のように来ては、

 

「あ~あ、ここの嫁は来客が来てもお茶も出さないんだねぇ~」

「ここが汚れているけど、掃除ちゃんとしているのかねぇ~」

「不衛生な家で生活させられて、私の息子は本当に可哀相だよ」

「あまり動くと誰も介護してもらえないからね、出来ないふりもするんだよ。」

 私に聞こえるような声で義父と会話をしているのです。

 

台湾では、ご老人や祖父母にたてついたり、反撃したりする事は絶対に許されない国なので、その時はじっと我慢しました。しかし翌日も、そのまた翌日も義祖母は友達を何人も連れてきて、私に聞こえるように、私の陰口を友達と一緒になって話しているのです。

 

もうこれには耐えられなくなり、泣きながら帰宅した夫に訴えました。

 

「息子の心配はわかるから、義祖母だけが来るなら良いけど、友達をたくさん連れてきて私の陰口を言われたりするのは耐えられない。」

 

ましてや、友達も来ているのだからお茶を出せ、果物を切れ、ちゃんとおもてなししろ、と。義父の介護とお世話だけでも精一杯なのに、たくさん人を連れてきて全員のおもてなしをしていたら、時間なんてとてもありません。

 

夫はとても心配してくれて、優しく私を気遣い、話をちゃんと聞いて義祖母に抗議してくれました。

 

「智子は召使いじゃないのだから、様子を見にくるのはいいけど、友達は連れてこないでくれ。それが出来ないならもう来ないでくれ」

 

夫が力いっぱい義祖母に抗議してくれたので、もう大丈夫だろうと気持ちがスーッとしました。と、同時にあんなに優しくて家族思いの夫なのだから、こんなに強く言うのも辛かっただろうな。と思うと少し胸が苦しくもなりました。

 

義祖母はそれから家に来なくなりました。よほどこたえたのでしょう。

 

私は嬉しくなりましたが、陰でますます私の陰口がエスカレートしていることが判明しました。義祖母からみて夫は可愛い孫ですから、孫の事は絶対に悪く言いません。全て私が言わせているのだと、矛先は全て私に向けられました。

 

私のストレスはもう限界を超えていました。

 

そんな矢先、義兄夫婦が「落ち着いたから結婚式を挙げて、新婚旅行に行く」と言いだしたのです。行き先はヨーロッパとのこと。

 

私達が入籍をしたときは、義兄夫婦はまだ結婚式を挙げていないから、私達の結婚式は少し待ってくれと言われていました。兄がなんでも先なのは、お国柄なのだろうと思っていましたが、今は状況が違います。

 

私は介護に追われる毎日で、結婚式どころか新婚旅行も行けない状態。そんななか義兄夫婦は盛大な結婚式と新婚旅行先はヨーロッパ。本当にうらやましく、そして妬み、私は涙が止まりませんでした。

 

「同じ兄弟なのに、義兄夫婦は盛大な結婚式に新婚旅行。楽しそうにお色直しのドレスまでデザインしているのに、私はみすぼらしく汚い格好で毎日介護」

 

自分の置かれている状況が、急に惨めになって悔しくて涙が止まらないのです。

「私は一体何をしに台湾に来たのだろう? 介護をするために来たのではない」

 夫に泣きながら訴えました。しかし義父があんな状態なので、もし私が不在になったら義父は一人で何もすることができません。全ては私の肩にのしかかっているのです。

 

夫はいつも優しく、「ごめんね、ごめんね。いつかきっと必ず僕たちも結婚式を挙げて、新婚旅行は思い出の場所、ニューヨークに行こうね」と、夫の優しさだけが私の気持ちを落ちつけてくれました。

 

私の精神不安定を心配した夫が「さくらの会」を紹介してくれました。

 

さくらの会とは、台湾在住の日本人妻の女性だけの会で、定期的な食事会などの会合があり、情報交換やコミュニケーション、語学のセミナーなどもあり、日本人のお友達を作れる場とのことでした。

 

私はさくらの会の話を聞いたとき、すぐ入会しました。さくらの会の会員さんは、みなさん私よりずっと年上の女性ばかりでしたが、久しぶりに思い切り日本語でお話することが出来る貴重な場で、とても楽しかったですし、何より精神的に落ち着きました。

 

「智子さんのところはお子さんまだ?もしこれから産むなら、日本で産んだ方がいいよ」

 

さくらの会で知り合ったご婦人に、そんなことを言われました。

 

台湾ではもし離婚になった場合、子供は無条件で夫側に取られてしまうのです。そうならないように、「もし産むなら日本で産んで、子供を日本国籍にしてから台湾で育てなさい」と……。

 

この時、台湾の離婚に関する法律を初めて知りました。私があまり不平不満ばかり言うので、心配になって教えてくれたのでしょう。だから私の夫の両親は離婚しても、父親と子供達が一緒に暮らしているのです。そして「さくらの会」に若い女性がいないのも、みんな私と同じように介護地獄や家族や親族とのトラブルから、自分の思うように言葉が伝えられず、異国で生活することの難しさに挫折して、離婚して帰国してしまうのだと……。

 

さくらの会に入会して少しした頃、予定していた義兄夫婦の結婚式が盛大にありました。義兄嫁がデザインしたキレイなドレスを何着もお色直しして、「自分達だけ…」と、本当に妬ましかった。そして結婚式が終わるや否や、すぐに義兄夫婦は二週間の新婚旅行にヨーロッパへ出発しました。

 

義兄夫婦の新婚旅行中に、義父の脳障害が本格的に始まりました。

 

私が午後の語学学校から帰宅すると、義父は自分のオムツをちぎって綿を取りだして遊んでいるのです。大人用オムツには水分を吸収するポリマーが多量に入っていますが、そのポリマーが尿を吸ってジェル状になっているのを、グニャグニャと粘土のように楽しそうにコネている義父にショックで、茫然としばらく立ちすくんでしまいました。

 

すぐに夫に電話をして、仕事を抜けてきてもらい病院へ。病院では「要介護の老人にはよくある事だから、オムツ遊びをさせない洋服で過ごさせるように」と指導され、パンツに手が入らないように、背中ファスナーのツナギになった服を数着購入。これでオムツ遊びの心配はしなくて済むとホッとしました。

 

ツナギの介護服になって、オムツに手が届かなくなったので安心していたのですが、数日後、また語学学校から帰宅すると、義父はどうやったのか上半身をスルリと上手に脱ぎ、またオムツをちぎって遊んでいるのです。

 

今度は尿だけでなく便もしていましたので、尿を吸ったジェル状のポリマーと便が部屋中に散乱していました。どうやったらここまで遠くに投げられるのだろう?というくらい部屋のあちこちに糞尿やポリマーが散らかっており、唖然としました。

 

しかも、義父の顔中に糞尿が付着しており、もしやと思い口の中をこじあけると、オムツを食べていたのです。口の中にポリマーと便が残っていました。夫に連絡して救急車を呼んでもらい、私は義父と一緒に救急車に乗り、夫とは病院で待ち合わせ。胃の洗浄や血液検査が行われ、胃の中からはオムツの綿やポリマー、便などを食べており、雑誌や新聞紙の切れはしなども出てきました。私は担当の医師にどんな介護をしていたのだと怒られ、心配して病院に集まってきた親族からは、

 

「智子が動けない父親に糞尿を食べさせたんだってさ」

「いよいよお父さんは、智子に殺されるね」

 と、心ない陰口。私の苦労も知らないで……。

 

この時の胃の洗浄のとき、口内に入れられた管により、義父の歯がまた抜けました。それも当然、「智子が糞尿を食べさせる時に抜いた」と言われ、反撃する力も無くなりました。

 

誰も私の苦労をわかってくれない悔しさに、帰宅すると泣きながら糞尿とポリマーを片付けました。

 

 義父は思いのほか、早く退院できました。そして義兄夫婦がヨーロッパの新婚旅行から帰ってくると、糞尿や雑誌を食べて救急車で運ばれた事件を問い詰められました。

 

「大事な父親なんだから、ちゃんと見ててくれないと困るよ」

「もう二度と、あんな事件を起こさないでくれよ」

 自分達は、私達が行けない新婚旅行に行っておいて、勝手なことばかり言ってきました。

「そんなに大事なら貴方達が介護したらいいじゃない!」と、言いそうになりましたが、私が反撃すればするほど、私の立場は悪くなるのはわかっている……じっと堪えました。

 

 義父が糞尿を食べてしまったことにより夫が住み込みの家政婦の手続きをしてくれていました。病院からは24時間体制の要介護認定が降り、インドからインド人の家政婦さんが住み込みでやってきました。

 

「もう義父の介護に追われなくてすむ!」と思うと嬉しくて、嬉しくて。金銭的な負担は大きくなりましたが、ようやく人間らしく新婚夫婦らしい暮らしがおくれるのだと心から喜びました。

 

インド人の家政婦さんは、本当によく義父の面倒を見てくれました。私は思う存分、語学学校へ通ったり、自由にさくらの会で知り合った友人と会うことができ、ストレスも無くなってゆきました。

 

しかしこの時期、台湾に来るインド人家政婦が、次々に介護老人を虐待する事件が台湾国家で問題になり、テレビのニュースでも大きく取り上げられるようになりました。我が家にいたインド人家政婦は献身的な女性でしたが、それでも国の視察が入り、インドから台湾に出稼ぎに来た家政婦全員はビザを取りあげられ、我が家の家政婦もインドに戻るしか方法は無くなってしまいました。

 

夢のような時間も束の間。そして、また私の介護地獄が始まりました。毎日、泣いて暮らす私を夫が心配して「そろそろマンションを購入して、この家を出よう」と言ってくれたのです。

 

ある日、久しぶりに親戚一同が我が家に集まる日があり、この時の親族の信じられない言動に私は離婚を決意しました。

 

親戚一同、総勢30~40人位は集まったでしょうか。初めは食事したり、楽しくゲームをしたりしていたのですが「親戚の中にいる身よりの無い老人の介護を誰が担当するか」についての話し合いになりました。いま思えば最初からこの話が目的だったのです。

 

親戚の中にはお年寄りもたくさんおり、子供に先立たれたり、結婚に縁がなく独身のまま、または離婚して一人暮らしなど、様々な事情により一人で暮らしているご老人が結構いたのです。

 

この集まりの少し前に、夫がマンション購入の件を親族に話していたので、義父の行方を心配して親族一同が集まったというわけで、ようやくこの日の意図がわかりました。

 

私は今住んでいる家を出たら、義兄夫婦が残るのだから、義父の介護の面倒は当然長男である義兄と義兄嫁が見るものだと思っていました。しかし台湾では「みんなのお父さんなのだから、みんなで面倒を見る」というのが一般的なようで、長男だからとか、長女だからとかの理由で親の面倒を見る義務には一切関係ないということも、この日に初めて知りました。

 

そして義父を始め、まだ会ったことのない老人達の介護までも、話の流れから私の担当にさせられました。

 

「この家を出てマンション買うなら、広くなるし、義父も一緒に連れてってね」

「智子は仕事もしていないし、介護に慣れているから大丈夫だよ」

「智子のところは、日本から年金が入るのでしょう?だったら貯金は必要ないよね」

 

 えっ? 年金…? 年金の話をどうして知っているのでしょう……。私は夫を問い詰めました。夫は日本の国の制度に嬉しくなって、「智子は将来1ヶ月約7万円(当時の国民年金受給額)が死ぬまで入ってくる」と、親戚中に振れ回っていたのです。

 

台湾の物価はとても安く、例えばコンビニエンスストアの時給は、日本円で約175円位ですから、6時間働いたとしたら日給1050円です。月に25日間労働したとして月収が26250円。台湾では普通に暮らせる金額です。それが1ヶ月7万円の収入と言えば、大金です。親族達はここに目をつけたようです。

 

私は断固として「無理です。」と、通しました。しかし、親戚の中の一人が7万円で暮らせる見積もりのようなレポートを作ってきており、そこには金銭の振り分けが細かく書かれていました。

 

私達は義父の他に計4人も老人を抱える計算になっており、食費から病院代や薬などの費用がシミュレーションのように書かれており、それを見た親族達も「これなら老人介護、まとめてできるね!」などと大絶賛。

 

みんなが私の国民年金を狙っている、今まで年金を納めてきたのは私なのに……。おまけに新居に引っ越したとしても、要介護の老人が4人もまとめて来る。私一人のおぼつかない北京語では、とても太刀打ちできず、先々に勝手に話を進めている親族に「もうダメだ…離婚して日本へ帰ろう」と決意しました。

 

私は自分の気持ちを夫に話すと、「離婚だけはしたくない」と泣きながら訴えてきました。しかし、夫の力だけではどうすることもできず、かと言って台湾という国では老人は親族の誰かが引き取り、面倒を見なくてはならなく放っておくわけにもいかず、夫だけの力では、どうすることも出来ないのです。

 

「絶対に離婚する、私の人生は介護地獄じゃないんだから!」

 

強く言い続けて、2005年に離婚しました。私の二年半の地獄のような結婚生活から解放され、無事に日本へ帰国しました。

 

私が日本へ帰国しても、「戻ってきて欲しい」と前夫からは毎日のように電話があり、日本へも何度か迎えに来てくれました。台湾で二年半も頑張れたのは、彼の優しさがあったからこそと言っても過言ではありません。彼のせいで離婚になったわけではないので、彼のことは今でも大好きです。

 

私達の間には子供はいませんでしたので、離婚も比較的スムーズにいきました。もちろん慰謝料なんて思いつかず、ただただ「離婚してこの状況から解放されたい」との気持ちだけだったので、金銭的なことは話し合いませんでしたが、いま思えばもっと冷静になって慰謝料の話もしておけば良かったと思いました。あのときは、ただ感情的になってしまって「早く自由の身になりたい」と、それだけの気持ちで、慰謝料は一円ももらっていません。少しはあったほうが、日本でやり直すときにもっと楽だったのかもしれません。

 

また、子供はいなくて本当に良かったと思います。さくらの会の友人に助言していただいた言葉がつくづく身に染みました。

 

何も調べず台湾に嫁ぎ、「ただ好きな男性と一緒にいたいだけ」と言う理由だけで、現地で結婚、離婚した勝手な私でしたが、良いこともありました。

 

離婚して日本へ帰国したとき、「離婚したので手続きを……」と区役所に出向いたのですが、国際結婚とは現地とは別に日本でも入籍手続きが必要だったようで、私の戸籍はキレイな独身のままでした。私の無知さが功を奏し、飛び上がって喜んでしまいました。

 

また、波乱万丈な台湾生活で気がつかないうちに身についた語学力は、帰国すると日本ではかなり上級なものになっており、私の新たな日本での収入をずいぶん支えてくれ、本当に助かりました。これが私にとって、彼からの慰謝料代わりになったのかもしれません。

 

現在、私は日本人の優しい男性と再婚(日本では初婚になりますが)して幸せに暮らしています。

 

前夫とは、年に一度の旧正月だけメールするのですが、前夫も再婚し、二人のお子さんが生まれて幸せに暮らしているそうです。そして義父は元気なものの、体がますます弱くなり、ほとんど病院へ入院したきりの生活。

 

私が嫁のときとは状況が全く違いますので、介護の必要のない現在のお嫁さんがうらやましく思いますが、幸せそうで何よりです。

 

もし国が違えば、また私の考え方も変わるのかなと思うと、来世は二人とも同じ国に生まれ、同じ環境で育ったなら、きっとまた一緒になれる。と、時々思い出して懐かしく感じます。

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